大東亜”豊楽”圏

 大東亜共栄圏のもじりであり、史実において豊臣家の滅亡に繋がったかの有名な方広寺の鐘銘”君臣豊楽”にも掛かっている。

§1 東インド会社

 この時代の東南アジアを考える上で欠かせないのがヨーロッパ商人の台頭である。史実上の順番ではイギリス(1600年)・オランダ(1602年)・フランス(1604年)の順であるが、英蘭はカトリック勢力に占領されて脱落。フランスは元々両国に触発された後発組であるから、世界初の株式会社の栄誉は(史実では四番手だった)デンマークが担う。但しその構成員は亡命オランダ人と言うことになる。

 その軌跡は史実上のオランダ東インド会社をほぼなぞる(ポルトガルのアンボイナ城塞は日本へ譲渡、また平戸への来航は、それに先立つリーフデ号漂着も含めて起こらない)が、デンマークの帰正によりプロテスタントの亡命オランダ人が散ってしまった為に会社は解散を余儀なくされる。

 行き場を失った東インド会社のオランダ商人たちを受け入れることができるのは、極東の大国日本だけであろう。カトリック勢力と結ぶ豊臣公儀は表向きはインド会社の日本来航を拒否するが、水面下で協力関係を結ぶ。

§2 開国ニッポン

 史実では、関ヶ原以降に職にあぶれた牢人たちが大量に海外へ流出した。しかし大陸に大量の駐屯兵を送り込んでいる状況では牢人傭兵が東アジアの状況を変化させるまでには至らないだろう。故に自由意思による渡海では無く、商館建設と連動した計画的な派兵が行われる。

 これら商館建設は朱印船貿易と連動する。これは秀吉時代から行われているが、この時代の記録はほとんど無い。しかし徳川時代初期の朱印船貿易が秀吉時代からの継続と見てよいだろう。

 貿易に課税するには、貿易を直接経営するか、あるいは貿易港を出入りを管理するかしかない。朱印貿易は朱印状と言う貿易許可証を与えることで貿易商人を把握してそこから税をとると言う、この時代にあっては最善の方法であろう。貿易の収支を直接見張って一定税率をかけるのはまだ先の話。

 史実の江戸幕府は鎖国政策に転じて海外の政情には不干渉であったが、開国政策を取る豊臣政権では海外にも総無事令を広げることになるだろう。

§3 南蛮総無事令

 豊臣公儀の朱印船を受け入れた政府に対しては、貿易だけでなく安全保障も提供する。それが南蛮総無事令の主旨である。以下史実における徳川幕府の朱印船渡航先を列記する。

 安南=北ベトナムの鄭氏政権

 交趾=中部ベトナムの阮氏政権

 占城=南ベトナムのチャンパ王国

 暹羅=タイのアユタヤ王朝

 柬埔寨=カンボジア王国

 太泥=マレー半島中部のパタニ王国

 呂宋=スペインの植民地ルソン島

 高砂=台湾(史実ではオランダ支配、後に鄭成功政権)

 この中で、スペインが呂宋島を日本に売却して撤退。オランダはスペインに敗れて独立を失うので、台湾島の統治権も日本の手に落ちる。

 まず交趾の阮氏政権に軍事支援をして安南の鄭氏政権と拮抗させる。チャンパ王国は史実では、海禁政策を取る明との出会い貿易の場として利用されていたが、征明に成功した状況下ではその価値も無く、急激に弱体化する。チャム族がイスラムに帰依していることもマイナス要因であろう。

 阮氏政権に押し出されたチャンパの民は同じチャム族が収めるアチェ王国への移民を行う。この移民政策を介して日本とアチェ王国との国交も始まる。スマトラ島の東北部に日本人町(現メダン)を建設する。

 カンボジアに関してはメコンデルタの治水灌漑を行い、プレイノコール(現ホーチミン)に日本人町を形成する。一方でパタニ王国はチャンパと同様の理由で豊楽圏から外れる。その代わりにジョホール王国が候補に上がる。ジョホールはポルトガルにマラッカを追われたマフムード・シャーの次男アラウッディン・リアヤト・シャーが建てた国で、マラッカ系では最有力であった。このジョホールとアチェを連合させて、ポルトガルからマラッカをせしめる。ジョホールが文句を行ってきたら、長男ムザファルの系譜であるペラク王国を引き合いに出して黙らせる。(ジョホールを宗家と認める代わりに、マラッカの管理は日本が請け負うと言う駆け引きである)

 ジョホール系であるマギンダナオ王国も豊楽圏に組み込まれる。マギンダナオ王国と日本領ルソンとの間での境界線を定め、現在のフィリピン領にキリスト教圏とイスラム圏とに分割される。

 ヨーロッパにおける最後のプロテスタント王国デンマークの敗北によりバタヴィア=ジャガタラは日本の統治下に入る。熱帯病が多く、オランダ人に不評だった(墓場とまで言われた)バタヴィアであるが、日本式の衛生管理によって住みやすくなるだろう。

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