番外06 水戸黄門の終焉

 このネタはドラマ「水戸黄門」の最終回に合わせてブログで書こうと思っていたものなのですが、ちょうど別のネタが持ち上がったので流れていました。

水戸黄門の時代

 「水戸黄門」の放送開始は昭和44年。私の生まれた年でも有ります。同じ年に「サザエさん」も放送が開始していて、長寿番組の当たり年とも言えます。(あの「全員集合」の開始もこの年でしたね)

 「サザエさん」はまだ続いていて、「水戸黄門」は終了しました。両者の明暗を分けたのは何でしょうか。どちらも放送当時の日本の状況を色濃く反映しています。しかし”現代”を描いた「サザエさん」が今ではある種の郷愁を感じさせるのに、時代劇である「水戸黄門」が逆に古臭さを感じさせるのは何故か。それは描かれた時代背景ではなくその世界観にあるようです。

黄門伝説の起源

 本当の黄門様は諸国漫遊などしていません。がこの構造に史実的なリアリティを求めたらそれはもう「水戸黄門」とは言えません。第四代の黄門様を演じた石坂浩二氏は「史実に基づいた光圀を演じたい」としていろいろと工夫を試みましたが成功しませんでした。石坂黄門は体調不良で二期で終了しましたが、それが無かったら彼が最後の黄門様になっていたことでしょう。個人的には御三家の西郷輝彦、橋幸夫、舟木一夫の三氏が揃って徳川御三家を演じる(正確には西郷は光圀の実子で高松藩主の松平頼常)と言うキャスティングが面白いと思ったのですが。

 水戸黄門の漫遊記というのは幕末に書かれたものですが、これは当時の水戸黄門こと斉昭が水戸家が「天下の副将軍」であると世に広めるために書かせたという説が有ります。これが事実なら水戸黄門伝説は初めから政治色の濃いものだったと言えるでしょう。

黄門神話の終焉

 さて「水戸黄門」で表現されているテーマは何か。一言で言えば身分を隠した黄門様が悪代官を断罪すると言うもの。この悪代官に苦しめられる農民と言うステレオタイプが左翼的マルクス史観を色濃く投影していると言えます。しかしこうした単純な江戸史観は見直されつつ有ります。

 しかしそれだけならもっと早く「水戸黄門」は凋落していたでしょう。悪代官は官僚を象徴していますが、これを懲らしめる黄門様は政治家を象徴しています。これは庶民感覚を持つ政治家が官僚の暴走を戒めると言う国民の期待を込めたドラマだったのです。

 政治主導を訴えて政権交代を果たしながら、全く機能していない民主党政権下でこの「水戸黄門」が終わるのはなにやら象徴的といえます。

時代劇不要論あるいは蛇足的まとめ 

 ミステリー小説が成立するためには整備された司法制度が必要といわれます。江戸時代のように拷問で犯行を自供させるような社会では名探偵が活躍する余地が有りません。それと同様に水戸黄門が成立するには実は平和な社会が必要なのです。いくら黄門様が印籠を出しても、悪人が恐れ入らなかったら話は成立しません。

 黄門様はひとしきり暴れた後、おもむろに印籠を出して悪人達をひれ伏させます。だったらもっと早く印籠を出せと言ういちゃもんが良く聞かれますが、それだとチャンバラシーンが無くなって爽快感が半減してしまいます。(暴れん坊将軍だと吉宗が素性を明かした後でも平気で斬り合いが始まってしまいますが)

 時代劇と言うのは現代劇で描けない話を過去の時代に仮託して描くことが良く有ります。と言うか、過去の時代をそのまま表現するのは”歴史劇”と呼ぶべきでしょう。(この辺は以前に時代小説と歴史小説の違いを語った稿で触れていると思います)

 言論の自由が保障されている現代においては現代風刺としての時代劇の役割は失われているのかもしれません。

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