番外05 オッカムの剃刀
オッカムの剃刀とは「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」とする思考作業における指針である。
単純化の罠
さて、今回取り上げる「家康の父親は武田信玄だった!」は小説でも漫画でもない。いわゆるトンデモ史観本である。(小説として書いてくれればそれなりに楽しめたかも知れないが…)
その基底は村岡素一郎氏の書いた「史疑徳川家康事蹟」にある松平元康・世良田元信別人説に有る。この中で元信の父とされる江田松本坊成る人物の正体が実は信玄であったと言う仮説だ。
仮説の発端は状況証拠から。まず二人の年齢差、継いで二人の肖像画の類似を挙げる。年齢差については後で触れるとして、肖像画については作者はあの良く知られた信玄像は別人説が有力となっている現状を知っているのだろうか。
継いで、作者は三方ヶ原での両者の激突に八百長を感じるという。これは二人が親子であったとすれば簡単に説明が付くと言うが、これが事実ならとっとと同盟を組んで信長を攻めればいいのである。そのほうがよほどシンプルではないか。(これについては一応の説明がある)
更に元康・元信別人説はあの信康切腹事件の原因となりうると説く。確かにそれも一説ではあるが、私個人は別の説明を支持している。信康の切腹が「信長の命令ではなかった」と言う部分は同意だが。
科学理論で有れば、シンプルなほど正しいと言う理屈は成り立つかも知れないが、歴史的事実に関してシンプルさと正しさとは結びつかない。
天動説と地動説
監修者はあとがきにて「天動説と地動説」の例を挙げて仮説の正しさを主張する。地動説が受け入れられたのはよりシンプルな説明であるからとするが、これは科学に対する認識不足である。地動説を補強するのは詳細な観測データである。より正確には観測技術の進歩により天動説の理論が破綻してきたと言うべきだろう。
実のところ、地動説はコペルニクスが初めて唱えたモノではなく、天動説が確立する以前に既に存在していた。古代の地動説の敗北の理由は一つには自転の存在を証明出来無かったこと、またキリスト教の教義が地球中心説を後押しした事がある。
要するにこの説を証明するためには”観測データ”に相当する証拠文献が必要となるのだ。
事実隠蔽?
作者も松本坊=信玄晴信説は否定した。その代役として松本坊=信繁説を提示した。信玄の弟典厩信繁は一般的には永禄四年の川中島の合戦で戦死した事になっている。作者はこの時死んだのが兄の晴信でその後の信玄は信繁であったと主張する。
さて此処で最初の仮定と矛盾する。即ち信玄家康の年齢差である。信玄晴信と典厩信繁の年齢差は四歳、よって家康との年齢差は一七歳に縮まる。確かにこれでもまだ親子である可能性はあるが、作者は晴信信繁年子説もあるとだけ書く。最初の前提はどこへ行ったのか。
作者は信繁が息子信豊に残した遺訓が「信玄家法」の名で呼ばれていると指摘している。「信繁家訓」が「信玄家法」の原型になったと言われるようだが、その一方で家法の成立が天文一六年、つまり信繁生前とされている。これは「信繁家訓」の方が後から出来たモノ(あるいは後世の偽作)と見る方が自然ではないか。
実のところ元康・元信別人説、あるいは信玄替え玉説、個々には信憑性を感じなくもない。ただ、この両方を結びつけてしまう所に無理を感じる。しかし最大の疑問は、三河一向一揆が元康派と元信派の内紛であったと言う部分だ。
一揆方(作者の言うところの元康派)の中にはあの本多正信も居る。あの戦いが宗教戦争ではなく家督争いだとすれば、彼の後の帰参(それがいつだったかにしろ)は考えにくい。また一揆に加わった武将についても反対派の粛清と言うには穏便に過ぎる。この時の武将達の動きを詳細に検証すれば、あるいはこの仮説を証明出来るかも知れないのにそれを全く行っていない。先にも述べたが状況証拠をいくら並べてみても、仮説を定説に格上げすることは出来ない。
また信康の一件で信長と折衝に当たった酒井忠次を、元信を買った常光坊の縁者にして松平家乗っ取りの同志ではないかとしているが、忠次は人質になった元康の共をした人物である。別人説なら彼は元康派に数えるべき人間ではないか。(むしろ元康派だったから晩年に冷遇された、とした方がまだ辻褄があう)
この手の仮説は自説に都合のいい部分を拡大解釈する一方で、都合の悪い部分を故意に捨ててしまう傾向にあると思う。
ちなみに私個人はこれは家康による三河統一戦争だと見ている。これ以前の徳川家は松平宗家であっても、一族の中で突出した存在はなく以前は今川家、今度は信長の力を背景に一族の掌握に乗り出したのだと考えている。
蛇足
さて、本書には上杉謙信女人説がおまけのように付随します。この部分は八切説そのままなので、真偽は置くとしても、目新しさは何も有りません。実を言えば八切本も信玄と謙信の両方の異説を纏めて一冊なので、これはお約束なのかも知れませんね。
しかし、前述のように信玄家康親子説にはまだ検証の余地があるし、これ一本で纏めて欲しかった気がします。まあ、発売時期(2006年11月)から考えて大河ドラマ便乗本なのは明らかですから、触れずには居られなかったと言うところかも知れませんが…。