半村偽史 注釈篇

§1 ヒ一族対鬼道衆

 「産霊山秘録」に登場するヒ一族と「妖星伝」に登場する鬼道衆。前者の上の巻が信長上洛から江戸初期まで、下の巻が幕末から戦後を扱っており、後者は吉宗時代の末期から田沼時代と、両者は作品の年代としては実は被らない訳ですが、果たして両者が同一の時間軸の中に共存しうるのかを検証します。

 まずは作中に書かれた確定事実の紹介から。

 ヒ一族は天皇家より上位に位置する家系であり、天皇家を前面に立てて黒幕として振舞ってきたのだが、いつしか主客転倒して天皇を守る立ち位置に落ち着いている。天皇家が分裂した南北朝期には一族も二分して同士討ちを演じたが、日野家から山科家へ移管されて生き残った。戦国の世にあって、山科言継が信長を後押しして天下を取らせる方策を推し進め、最終的に家康の元で偃武を成し遂げた。

 一方の鬼道衆。朝廷から排斥された古い血族(出雲系)と百済からの渡来人集団の融合であり、百済王女”お恵さま”と満天星(どうだん)との間に生まれた”外道皇帝”を頭として戴く。外道皇帝は実は補陀洛星から飛来した宇宙人であり、地球の生命進化に干渉して”互いの命を食い合う地獄”を作り出した張本人であった。

 ヒ一族が天皇家を頂点とする神道を形成し、そこから外れた祭祀が鬼道と呼ばれることに成ったのであろうことは容易に推察される。蘇我・物部の崇仏論争は両者の対立が背景にあると思われ、それから乙巳の変・壬申の乱と政権が入れ替わり、最終的には承和の変に始まる藤原氏の他氏排斥によって(藤原氏は旧姓を中臣といい、元は神事・祭祀を司る家柄であった)ヒ一族の勝利に終わる。この時に都を追われた橘逸勢はおそらく鬼道衆寄りで、これは東国に鬼道衆の勢力が広がるきっかけと成った。

 外道皇帝が失われたのは吉宗時代から千年ほど前、おおむね聖武天皇の時代と推定される。この頃に鬼道衆の一部西面三門が失われて紀州に篭る。ここが鬼道衆の西限でここより西には鬼道衆の勢力は無い。その一方で比叡山は古くからのヒ一族の訓練場で平安京が出来てからここに延暦寺が立てられている。最澄がヒ一族と繋がっているのはほぼ確実であり、空海が鬼道衆と結びついたのではないかと想像される。ちなみにこの時点でのヒ一族の東限は信濃であろう。これは諏訪に逃れた出雲の残党・建御名方の監視が主な任務であった。

§2 嘘部一族

 嘘部の最初の任務は聖徳太子の指揮の元、仏教を広めることであった(と推察される)。太子が志能備を用いたと言うのもこの辺りから来るのだろう。(話が逆か)

 嘘部はヒ一族と鬼道衆の対立抗争の中で、両者の間を取り持つ形で発言力を伸ばしてきたと思われる。ヒ一族の優位が固まると、彼らは正倉院(その創設者である良弁は嘘部に近しいモノとされる)の宝物を守る番人の役割にまで後退する。彼らが再び政治の舞台に繰り出すのは戦後、アポロの月着陸によりヒ一族の力が完全に失われた後になる。

§3 異形の王権

 後醍醐天皇を後押しして倒幕を実現させたのは鬼道衆ではないかと思われる。後醍醐天皇が行った無礼講は鬼道衆の匂いがするし、楠木正成の兵法は紛れも無く鬼道衆の戦術では無いか。彼らの目的は倒幕などではもちろん無く、社会を混乱させること。南北朝の抗争は宿敵ヒ一族の同士討ちを起こさせた。ここから戦国時代までの流れはまさに鬼道衆の思う壺であっただろう。

§4 勅忍

 ヒの司であった山科言継は軍資金を調達するために正倉院の宝物を売却した。これには嘘部の同意が不可欠であっただろう。嘘部は何故この計画に協力したのか。それは前年の大仏焼失が関係している。

 嘘部には武力が無い。如何に嘘を駆使しても、戦そのものを退ける威力は無い。このまま戦乱が続けば、正倉院の安全も確保できない。彼らにとっても苦渋の決断であっただろう。

§5 日光と天海

 ヒ一族の長随風=天海僧正は芯の山を探す過程で日光山に目をつけた。日光は芯の山ではなかったが、月に繋がる特殊な産霊山であった。一方で、日光は鬼道衆にとっても特別な地であった。両者を突き合わせてみると、日光は宇宙への出入り口であったようである。

 家康が日光を芯の山だと考えたのは鬼道衆としての伝承が理由ではなかったか。そして天海はその勘違いを利用して本当の芯の山が江戸にあることを隠蔽したのであろう。

 外道皇帝が太古に地球に飛来した異星人(更に地球の生物進化に干渉した”神”)であったことを考えると、産霊山システムも彼が作ったものなのかもしれない。あるいは、外道皇帝が危惧したこの星の異変の前兆であったか。

§6 再考ヒ一族対鬼道衆

 それにしても天海は家康が鬼道衆に連なるものであったことに気が付かなかったのだろうか。家康は鬼道衆としての知識はあっても、能力は使っていない。故に発見が遅れたと思われる。可能性の一つとしては関ヶ原の時点、秀忠が黄金城の金塊を一部取り出したときが考えられる。秀忠の遅参も、関ヶ原に展開しているヒ一族に見つからないための用心であったのかもしれない。

§7 黄金奉行

 家康が山狩り衆の猿渡家を黄金奉行として取り込んだは天正元年(正確には改元前の元亀四年)のこと。これは信玄がヒ一族の念攻撃によって死去したことと無関係ではあるまい。信玄は自分の死を三年隠せと遺言したが、おそらく信玄の死によって武田家に従っていた山狩り衆が徳川家に鞍替えしたのだろう。おそらくは大久保長安もその中に居た。(長安が徳川家に仕えた時期については諸説ある)

 家康が彼らを取りこむことが出来たのはやはり鬼道衆の血筋であったからであろう。山狩り衆は日本の古き民と考えられ、中央から追われた鬼道衆たちとも接触があったであろう。また、最後に黄金奉行一行が篭った洞窟も鬼道衆の黄金城と類似している。鬼道衆が外道皇帝とともに宇宙へ飛び去った後の遺跡と考えるのが妥当である。

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