塙侯爵一家の謎

§0 作者の意図

 ロンドン時代には主人公を信之助と表記しているが、帰国の途について以降は一貫して安道と書かれている。これは帰国したのは本物であると言う伏線であったのだろう。と考えればあの終わり方には何の不思議も無い。替え玉である鷲見信之助を探してきたのも須藤ドクトルであり、氏は畔沢大佐の陰謀に加担していたと見せかけて、その実は安道の協力者であったのだ。

 しかしそれだけで全ての疑問は解消しない。この作品は記述が不完全であるが故に作者の意図とは違う読み方が出来てしまう。

§1 黒衣の女

 最後まで解かれない謎の一つとして、沢村美子に安道が偽物であるとというメモを渡した黒尽くめの女は誰だったのか。と言うものがある。

 あの段階ですり替えを知りうるのは当事者である安道と信之助そして大佐と須藤のみである。大佐に暴露する必要性は無いから安道・須藤の意図したことであろう。その目的は美子に疑念と野心を抱かせること。それにより将来的に大佐との相討ちも狙っていたであろう。

 さて問題は実行犯である。作中に全く登場しない人物であれば推理の余地は無いが、顔を見られないように配慮していたことも考えれば誰かの変装である可能性が高い。私の想像では、ロンドンで安道(この時は信之助)の手相を見たあの巫女である。以後この仮説を元に推理を進める。

§1−1 謎の巫女

 謎の巫女が本当に霊能力があったとすれば、信之助=贋安道の手相を見て「高い地位につく」とか「その前に死が」などと言う予言をするはずが無い。本物の預言者であるならば、帰国後も一貫して信之助が替え玉を勤めていたことになるが、一回目と二回目が別人であることは自身が証言しているのでこの可能性は無い。つまり巫女は霊能力などなく、自分が見た相手が塙侯爵の七男であることをあらかじめ知っていたのだろう。安道が侯爵家を継ぐ可能性を知った上で、その為には最低でも父侯爵が死ななければならないと言うことも当然に予想がつく。加えて言えば、この時点ですり替えを知らないことも明らかである。

 安道(と須藤)は彼女が似非霊能者であることを利用して協力者として取り込んだのだろう。

§1−2 美子の誤解

 安道が偽物であると吹き込まれた美子は、入れ替わりが帰国直前だと勘違いした。いや、パーティに出たのが贋で帰国したのが本物だから、この前後で別人あるのは事実なのだ。この勘違いはむしろ美子の観察力の確かさを証明している。前者が偽物で後者が本物だと言うのは確かに想像の範疇外ではあるが、自分の魅力に対する過信と言うか自己愛も感じられる。

 安道に捨てられ、晴通に乗り換えざるを得なくなった美子は、帰国したばかり(無論それは嘘)と言う霊能者を使って安道が偽物であることを暴露しようとした。しかしそれは却って安道は本物であることを証明することとなった。

§1−3 安道の計画

 まず、アヘン中毒は須藤医師と組んだ偽装である。帰国したのが本物である限りこれは大前提である。安道が廃人になったから替え玉を探したのではなく、替え玉足りうる信之助を見つけたから工作に着手したのが正しいだろう。

 当初の計画では、替え玉を使って長兄を殺害させ、後から替え玉を暴露してめでたくお家相続となるはずだったのだろう。そうでないと時間的な整合性が取れない。しかし長兄の急死により少し計画は変わった。殺人という危険な橋を渡らずに済んだので、自身で帰国することにしたのだろう。

 信之助との話し合いは、大佐が席をはずした短い時間の間に行われたのだろう。安道が死を偽装した後、実際に死体の処理を行ったのは(記述は無いが)医師である須藤である。須藤が一足遅れて帰国したのもその証拠である。

 大佐はこの処理に自ら立ち会っていればあのような自滅を味わわずに済んだのだが、その点も安道・須藤の計画通りであろう。

§1−4 島崎麻耶子

 鷲見信之助であれば、侯爵家のパーティで踊っていた麻耶子がすぐに分かっただろう。よって須藤医師に名前を調べさせたのは、あれが本物の安道だった証拠である。安道は自分を見て奇妙な反応を見せた女に疑問を抱いて女の所在を調べさせた。その意図はよく分からない。

 信之助は麻耶子から送金があったことを知らない。彼は恋人に見放されたと思い込んでいるだろう。その麻耶子にわざわざ変装して会いに行った安道の意図は如何に。信之助が後に生きて帰国したことから見て、何らかの辻褄併せのためだろう。安道はその計画の中で誰も傷つけていない。裏を返せば決して自身の手は汚さないとも言えるが。

 安道が麻耶子に会いに行く際に、謎の黒衣の女が密かにその後を付けている。黒衣の女は安道の一味では無かったのか。いやそうではない。女は安道が入ったアパートを立ち聞きして、替え玉の本名と彼が密会していた女の名を知った。替え玉計画を知っていてその替え玉の名前を知らないと言うのは考えにくい。よってこの女は美子に替え玉を教えた女とは別人なのだ。では誰なのか、おそらく美子の変装であろう。その衣装はおそらく密かに贈られたもの。美子にこの衣装を贈ったのも安道の計画の一部なのだろう。

緑304版