東洋占星術

§1 インド・イスラム

 インドの天文学はバビロニアの影響が顕著であり、占星術もヘレニズム流の宿命占星術が入り込んでいる。ここにインド起源の土俗的占いが混在している。インドも「ホロスコープ」占星術であるが、西洋式の十二宮ではなくインドの二十八宿で置き換えられている。

 占星術の起源であるメソポタミアとインドの間にはペルシアの砂漠が有るのだが、アレキサンダーの遠征やその後の貿易ルートによって直接流れ込んできたモノらしい。イスラム以前のササン朝ペルシアの占星術はインドからの逆流入と見られる。その為ササン朝時代には十二宮と二十八宿が混在した。

 イスラム文化は中世科学の担い手であり、占星術においてもバビロニア以来の正統な流れを汲むモノである。

 ヨーロッパではローマ帝国時代も以後もキリスト教と占星術は共存しなかった。一切を運命とする占星術は善悪の区別が無く、全知全能の神も認めないからである。同じ一神教であるイスラムでも相性の悪さは同じであるはずで、主流は自然占星術であった。本質的に商人の宗教であるイスラムでは占星術を「役に立つ」モノとして認識していたようである。

§2 中国

 中国では占星術のドグマ化が顕著である。太一陰陽五行説は占星術起源である。

 太一とは北極星であり天帝の玉座とされ中宮と呼ばれる。天帝の宮居は紫の薔薇の生け垣で囲まれているとされるが、恵美押勝が皇后宮職を改めて紫微中台と呼んだのはこれに由来する。不動の北極星の周囲を巡行する北斗七星は北辰とも呼ばれ天帝の御車であると考えられた。

 陰陽は太陽と月である。易はこの陰陽を用いた占術であるが、これは別に一稿を設ける。

 五行は元々は西洋の四元素と同様に万物を要素に分解する試みで、その数は一定していなかった。これが”五”行に固まったのは(その当時に観察出来た)五惑星と対応付けられた結果である。五行説がドグマ化されると、五惑星より五行の方が根本とされ占星術的な要素が希薄となる。だから、近世に入って新たな惑星(天王星・海王星・冥王星)が発見されても五行説に揺らぎは生じない。西洋占星術がこれらの惑星を組み込んで深化・複雑化していったのとは対照的である。

 十干十二支は時間を数える方法として考案された。十干とは十本の天の樹の幹の意であり、十天干とも呼ばれる。これは五惑星あるいは五行を兄弟に分ける事で成立した。木の兄=甲、木の弟=乙という具合である。伝説では十天干の原理を考案したのは皇帝の占星術師大撓とされる。彼は十干で草木の成長過程を説明した。夏の時代に入って更に長い時間を記録するために十二地支(十二の地に達する枝)が十天干に加味された。この十二支も生物の誕生から死までの循環を表している。各々に動物を配したのは漢代で西洋の十二獣帯の影響であろう。

 なお、夏暦では甲寅が暦元とされたが、殷暦では甲丑に移り、周暦に至って現在と同じ甲子が暦元となった。

 インドでも用いられた二十八宿は月の周期に由来する。月の満ち欠け、つまり月齢周期は二十九日余であるが、星座を起点として天球を一周する周期は二十七日余(27.3217日と計算されている)この事から古代インドでは二十七宿(後に二十八宿に改められる)、中国では二十八宿が考案された。28という数字が算術的に都合がよかったと言う点も採用の理由であろう。

§3 仏教占星術

 ここで言う仏教占星術というのは唐の粛宗の御代に不空三蔵(西遊記の玄奘三蔵とは別人)がインドより持ち帰った宿曜経に基づく占星術である。元はバビロニア起源の西洋占星術であるが、一部インド風にアレンジされている。

 インド占星術は中国でも知られていた二十八宿と、陰陽五行とは異なる発生をもつ七曜とで成り立っている。但し中国では乙女座の角(スピカ)から始まるのに対してインドでは牡牛座の昴(スバル)に起点がある。

 仏教占星術では西洋占星術には存在しない二つの凶星を加えて九曜となっている。ひとつが蝕を起こさせる暗黒の星・羅ごう(目+侯)星であり、もう一つが彗星を表す計都星である。西洋占星術では前者は月の白道の降交点・(竜尾=ドラゴンヘッドと呼ばれ凶)、後者は昇交点・(竜頭=ドラゴンヘッドと呼ばれ吉)に対応するらしい。

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